いちのせき文学の蔵について

 

 公設民営による「文学の蔵」を設立しようとする市民運動が起きたのは、平成元(1989)年の早春であった。色川武大さんが創作に打ち込むため一関に移住された頃に、ぴたり重なっている。
 色川一関移住!のビッグニュースによる興奮が広がりはじめたと思う間もなく、急死の悲報が稲妻のごとく走った。喜んでいたわたしたちは、やりきれない電撃に身を貫かれた。
 だが、運動に不思議な力が作用した。稲妻は稲魂、あるいは稲つるびでもあったのだ。雷電と稲がつるんで穂を孕む、という古人の思想であるが、文学の蔵運動は、色川さんの死によって疑い無く加速された。
 そこへ、一関ゆかりの井上ひさしさんが「助っ人」として現れた。たまたま、かつて在籍された一関中学校の同期会に来られたのだ。一ノ関駅でお会いしたあと、わたしは一年先輩にもかかわらず、同期会の席に厚かましくも入り込んだ。このあと、井上さんの希望で、文学の蔵の関係者と色川宅を訪ね、お焼香をした。遺品の一関への寄贈の話、そして 文学の蔵への「助っ人」宣言は、色川さんの遺影の前で起きたのであった。
 翌年さっそく「井上ひさしの日本語講座」を開催した。その次の年には、一関を父祖の地とする大槻文彦の 『言海』完成百年を記念する大事業に取り組んだ。丸谷才一、大野晋、大岡信、高田宏という錚々たる方々による講演と、辞書をめぐるシンポジウムに、全国的な参加者が溢れた。わたしたちは、言葉の力の持つ求心力を強く強く感じたのであった。
 言ってみれば、稲魂も言葉の力だったのだ。その光の穂先は伸び、色川さんの遺品が一関市に寄贈された。井上講座はその後、「文章学校」「賢治を読む」「作文教室」と回を重ね、出版も起きた。
 ゆかりの島崎藤村の文学碑が建立され、島崎藤村学会の全国大会も開催された。近代の始まりにおいて、言葉と格闘し続けた藤村についての再学習は深まり、「あゝ、自分のやうなものでも、どうかして生きたい」という碑文の奥に、わたしたちは、言葉の力を信じて生きていく、という譲れぬ態度価値を発見し、そこに響き合う価値観を共有するようになったと思う。
 大世紀末ともいえる時期の運動は、国内外の激変に遭遇し、経済的困難の増大から先行きが曇る中、2000年の「子ども読書年」を迎えた。国会が全会一致で「子ども読書年」を決議するほどに、未来からの留学生たちの言葉の力は弱々しくなっているのか、それは、大人たちの問題ではないのか、なんとかせねば、そのきっかけを創らなければ、と考え、谷川俊太郎さんを招いて詩の朗読のつどいを開催したところ、会場は入り切れないほどとなった。わたしたちは、絶望してはならないのだと思った。また、次の世代へのバトンタッチの大事さも胸に刻んだ。
 今、乏しい自力で文学の蔵ギャラリーを、わたしたちは準備している。わずか十坪の日本一ちいさな文学館ではあるが、言葉の力を信ずるものたちの拠点として、とりあえず構築しょうとする。展示するのは、ゆかり、出身の多様な文学者たちであるが、通底する「言葉の力を信じて」の生き方をメインテーマと見据えることで、さらに今後も響き合って、 たとえ細くても、息の長い運動を進めていきたいと念じつつ、同行者の増えることを切望している。

                          (文学の蔵会報21号 いちのせき文学の蔵元会長 及川和男)

 

 

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